~熱風の果て~

観劇の記録

ばにら、明日をありがとう(A企画)@テアトルBONBON

【演出】永岡ゆきお【脚本】ハネイサユ

【出演】小川真琴、さいとう雅子、高橋ふみや、大図愛、腕トラ、にちょうぎロングビーチ、瀬戸貴文、上村英里子、竹田充希、外崎玲奈、小澤慶祐
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昨年の早い段階に告知があった、さいとう雅子さん出演のこの舞台。はるか先のように思えた2018年の2月も、季節は確かにめぐり、やって来た。
都会の無機質の海に放り出されたかのような姉妹のビジュアル、「普通ってなんですか?」という根源的な問い、イジメの傷という重い設定。
決してストーリーの明快さや爽やかな観後感があるわけではなく、観劇前の予想を上回るほどに、見る側の心を抉りこみ、人生を考えさせる重厚な作品。エンタメ性を求める舞台作品が多い今の時代、あえてこういった作品を送り出した制作スタッフと、作品の重さに真摯に向き合って舞台上で表現した出演者には敬意を表したい。
舞台の題名を聞いたときには、犬か猫の名前かと思った「ばにら」は、妹の佳奈のイマジナリーフレンドのような存在で、なぐさめたり叱咤激励したりするわけでもなく、自由気ままに寄り添う。佳奈が自分自身と向き合い、人生や社会と向き合い、姉の夕月と二人、自立した一歩を踏み出す瞬間を少し寂しげに見届けると、微笑みを浮かべて立ち去っていく。同じように、実在すら不確かな、謎めいた存在として劇中に登場する「雨」は、通り雨のように現れ、優しく、厳しく、乾涸びた人の記憶や本音を呼び覚まして湿り気を与え、気づきを促して立ち去っていく。雨音を呼ぶように最後に舞台に散らした楽譜は、姉の夕月が奏でてきたピアノの音色や、父親との記憶といったものを象徴していたのだろうか。
人間の醜さ、嫌な部分を凝縮したような登場人物たちは、思い上がり、人を虐げ、欲にまみれ、その危うい土台で自分を保つ。道化のようで滑稽でもあり哀れでもあるような彼らの存在を鏡に映せば、そこに自分自身の影を見出すことになる。天狗の鼻が折れて、物語が明るく収束する予感を抱いたとき、一つの忘れ物を思い出し、愕然とさせられる。佳奈と同じような思いを抱いていた弘樹には、なぜ「ばにら」や「雨」が現れなかったのだろう。ヘッドホンと自己暗示で、内なる声にすら耳を塞いでしまったのだろうか。己は、彼の中にもまた、佳奈と同じように自分を見出す。そのシーンを見たときに思い出したのが、三上寛の「ピストル魔の少年」という歌。犯罪者に対して「僕の友達よ」と同情を寄せるかのように歌いかけることに嫌悪も感じていたが、彼もまた彼の中に自分を見たのだろう。
妹の佳奈を演じたまぁこさんは、「未来への十字架」から僅か1週間余りで迎えた本番。彼女を舞台で見ると、いつも「さいとう雅子」としてよりも、まずは演じている役として入ってくる。それだけ役に全霊をぶつけて入り込んでいくタイプの役者である彼女にとって、期間の短さもさることながら、マイナスに振り切れた感情まで受け入れて演じることへの切替えは難しかったはずだが、舞台上には佳奈というキャラクターがはっきりと立っていた。まっすぐさや素直さ、純粋さといったところは、佳奈とまぁこさんに重なる部分もある。綺麗な心を持つ佳奈が、イジメの記憶に苛まれたり、大人を相手に精一杯の抵抗を試みたり、包丁を振り回したり、見ていて辛い場面も多く、「水をかける」という抵抗手段自体が、イジメの記憶とリンクしていると考えると、余計に辛いものがあったが、そんな不安定さや、消えてしまいそうな危うさを演じられるのもまた、彼女の魅力だと感じた。雨さんを演じた腕トラさんのラジオ番組に出演していたときも、演じるということへの強い意志が感じられたし、そのときの腕トラさんの、ゲストの良い部分をリスナーに少しでも多く伝えようというパーソナリティとしての姿勢も嬉しかった。腕トラさんから直接、劇中歌となっている「雨とバニラ」のCDも購入してきたが、イメージどおりの優しい方だった。
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