~熱風の果て~

観劇の記録

すてきな三にんぐみ(爆走おとな小学生)@キンケロ・シアター

【演出】加藤光大【脚本】千歳まち

【出演】白石みずほ、葛城あさみ、石原美沙紀、辰巳シーナ野々宮ミカ、雛形羽衣、夏目愛海、長橋有沙、林千浪、宮下奏、相澤香純、朝比奈南伊藤みのり、倉田侑里茄、とよたかなみ、相良朱音、伊東みおな、江藤彩也香、千歳まち、小田あさ美、紗綾
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原作の絵本のストーリーは全く知らないので、舞台化に当たってどの程度の改変があったかは分からないが、純粋に舞台作品として見ると、辛めの評価にならざるを得ない。
「46億年ゼミ」では、壮大な時間軸を表現するために大きな舞台を必要とする理由は理解できたが、今作では、キンケロという大きめの劇場を使わなければできないような演出は見て取れなかった。3人組が子供たちを連れ出す過程を描くのに費やされた前半は登場人物が少数に限られるので、広い舞台の空間を持て余し気味に見えた。
舞台としては、中世ヨーロッパのような雰囲気ながら、義務教育があったり、警察機構が整備されていてスーツを着た女性捜査官がいたり、探偵が職業として成り立っていたりと、現実世界の特定の時代に当てはめることはできない。なぜ村に男性がいないのか、女性だけの舞台としてはそこの説明がないと不自然な感じを受ける。登場人物たちの派手な髪色も設定の統一感のなさを強めてしまった。
善悪二元論の打破は望むところだが、ストーリーをハッピーエンドに収束させるには、余りにも犠牲が大きい。これが絵本のとおりの過程であり結末なのであろうか。まず、夏目さん演じるカトリシアは和解の印としての尊い犠牲として理解できるが、それで十分ではなかったか。そのカトリシアの生命を尽き果てさせたニーナにも償いが必要であり、更にニーナを追い詰めた義母にも償いが必要であり・・・と血の償いの連鎖を描くのは子供向けの絵本としてというよりも、単純にストーリーとして安易だし、心地のよいものでもなく、カトリシアの犠牲の尊さに泥を塗られたような不快感があった。命を奪われるのが親子のペアというのも都合がよいし、4つもの命が失われてから、過ちに気づいてわだかまりを乗り越えて、生き残った者にすぐに笑顔すら見られる・・・という展開は、人間の感情として理解できるものではなかった。この展開であれば、村人たちが祀るべきは、3人組よりもカトリシアやニーナの方なのではないだろうか。また、取ってつけたように逮捕されたティファニーの義母は、善悪二元論の克服のために救いのない単純悪として描かれることに矛盾を感じた。
途中、物語が血の償いを求めていることに気づいたときには、部外者であり、家族もない流れ者である3人組が犠牲となるのかと思った。社会のしきたりやルールから外れたがゆえの言われなき代償を払うことで、彼らの悲しい生き様や社会の理不尽さを示すとともに和解にもっていくのかと思った。3人組は、フライヤーのイラストのような不気味さがほとんど見られず、最初から親しみやすさが強調されていたのも簡単に彼らの本質を明らかにしすぎだった。大人たちからは疎外されるべきもの、子供たちからは受け入れられるもの、というハーメルンの笛吹きのような二面性を見せるためには、無表情で口数も少ないという設定の方が、風貌とも合ってよかったのではないだろうか。
平和な村という設定に似合わない大人たちのどうしようもない心のいやしさの描き方は、あからさまに過ぎた。世間体や因習といった大人たちにとって正しいもの、守るべきものを、単につまらないものとしてではなくて守るべき理由のあるものとして説得力のある形で示したうえで、子供たちや3人組が純粋な心でその真実性に揺らぎを与えていく、という静かな心理劇が見たかった。
長橋さんが演じたジャンヌは、これも時代を映しているのか、トランスジェンダーという設定。演劇で取り上げられるのは初めて見た。LGBTと言えば、ゲイを愛すべき道化のように描くものと相場が決まっていたが、今後は描き方も変わっていくのだろう。
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